石川譲・人生の自分史

今回、僕の方からお願いして、前回「起業家としての自分史」を作る際にお願いした正木伸城さんにインタビューをして頂きました。

質問の角度も、僕の答えへの対応の際に使われる言葉も絶妙で、約1時間半に渡るインタビューでしたが、あっという間に過ぎてしまいました。

人生を紐解いて頂きながら、自分の中でも新しい発見があったりと、本当に有意義な時間を過ごせました。ありがとうございます^^

特別な人間でない私でも”勝てる”方程式がある

――石川譲さんというと、アフィリエイトで成功し、ご自身の事業でも顧問としての仕事でも成果を出している「できる人」というイメージがあります。どのような人生を歩んでこられたのか興味津々です。

僕は「できる人」ではないんです。アフィリエイトだって何だって、僕のビジネスの多くは「逃げ」というか、それまでのことから目を逸(そ)らすかたちで始めたんです。しかも僕は賢い人間ではありませんから、うまく立ち回ることはできない。今もし僕がビジネスで「成功している」と言えるのだとしたら、それは「賢くない人でも勝てる方程式」を見つけたからだと思います。僕って「しっかりしている人ですね」「資質を持たれていたんですね」とよく言われるんです。でも実際は、誰にでもできる努力をしてきただけなんですよね。謙遜でも何でもなく、事実として「こんな俺にでもできることだから、あなたにもできるよ」と本気で思っています。だから、ナレッジをお客さんに提供したり事業をスケールしたりする時に、「あなたにもできます」って正直に伝えています。

――石川さんの「自分史」を書くにあたり以前お話をさせていただきましたが、石川さんが、繰り返し行う「反復の努力」に長(た)けているという印象を持ちました。

確かに、それは得意だと思います。語弊を恐れずに言えば「誰にでもできる努力をなかなか他人がマネできないほどに反復してきた」と言えるかもしれません。でも、いざ本気で「やってみよう」と決意できたら、僕のメソッドって多くの人が努力して実行し続けられるものだと思うんです。僕はほんとうにごく普通の人間で、ポンコツな部分もたくさんある。だから、僕が提供するナレッジは特別な能力を必要としないものになるんです。

とにかく僕は、自分の能力をわきまえて「確実にできることを着実にやる」というスタンスを取り続けてきました。反対に、それ以外のことは基本的にやりません。以前、公開してくださった「自分史」の記事の中で「ビジネスにおいて私が常に心がけているのは、『石橋を叩いて渡る』ビジネスをさらに突き進めた『石橋を確実に壊れないようにして渡る』スタイルです」と書いてくださいましたけど、石橋が壊れないという手応えが得られた段階で、かつ「努力したら確実にリターンが得られる(少なくとも主観的にそう見える)」と感じた場合には、できる努力をできる限り徹底的に行います。

「石橋を叩いて渡る」の生き方は幼い頃から

――確かに石川さんは、「その『成功ビジョン』には、ほんとうに確証があるのか」をきちんと精査して仕事をされていますね。「石橋を叩く」発想は昔からなされていたのでしょうか。

小さな頃から”傾向”はありました。着実にやる性格を持っていたというか、豪胆な感じはなかったですね。争いごとも嫌いで、たとえば僕は高校時代にテニス部の部長をしていましたけど、「摩擦が起きないようにする」といったスタンスをとっていました(笑)。自分と部員、または部員と部員の間とかで、です。グイグイ引っ張るリーダーに憧れつつも、そうなりきれない自分をわきまえていた部分があった。

――しかし、そのスタンスは組織人としてはとても大切だったりします。時には石川さんの強みにもなるでしょう。今の世のなか、「0」を「1」にするイノベーティブな人が求められがちですが、石川さんは「1」を「10」にするのが得意だったりしますか。

基本はそうだと思います。今だからこそ「0」を「1」にする仕事もできるようになりましたが、イメージとしてはすでに市場に流通しているモノやコトを組み合わせて既存の何かに当てはめることが得意です。

父不在の家庭環境で育つ。寂しさゆえの”脱走劇”

――石川さんの生まれはどちらですか?

東京都東久留米市の出身です。ですが、生まれてすぐに父親が亡くなった関係で、長い間、親がいない家で生活をしていました(親戚に預けられるなど)。「父不在」という現実を意識し始めたのは保育園に通っていた頃です。だから――これは寂しかったからかもしれませんが、僕は保育園を脱走していましたね(笑)。とにかく保育園に行きたくなくて、2回脱走して、保育園から何キロも離れていた母の職場まで電車に乗って行きました。即、連れ戻されましたけど(笑)。この脱走劇に関しては、自分のキャラに照らしても「大胆だったな」と思います。でも、良く言えば「一度決めたことは、しっかりやる」という現在に通じる性格が出ているとも言えるかもしれません。

――幼い頃の「寂しい」思いは、その後の人生にも影響を与えましたか。

ハッキリとした寂しさを全面的に抱いていたわけではありません。でも一方で、「やたら自信がない」という自分とは向き合わざるを得ませんでした。自己開示が怖かったというか。自分の胸襟を開いた瞬間に、自分の中に何もないことが他人にバレてしまうのではないか。それが怖くて、ありのままの自分でいることが苦手になってしまったんです。なので、中学・高校時代は精神的に結構しんどかったですね。友だちから仲間外れにされるのも怖くて、ひたすら同調していました。

自信をつけたい――ニュージーランドへ留学

――ちょっと卑屈な表現になるかもしれませんが、「こんな俺でも受け入れてくれる『この仲間の輪』から外されたくない」という感じから同調した?

そうそう!(笑)。超ネガティブ路線ですよ。根本には自分に「自信がない」というメンタリティがあって……。その裏返しとして、とにかく自分に自信をつけたくてやっていたのが部活動のテニスです。高校時代にテニス部で部長をしていたことは先に伝えましたが、大学に進学してからもテニスは継続しました。ただ、大学のテニスとなるとレベルもグンと上がるので、ついていくのが最初はやっとで、そこでも自信のなさが表れてしまいます。優秀な選手を必死に真似しました。で、この「真似」ですけど、部活動以外の大学生活においてもそうだったんです。スゴイ人を見かけると、ついつい真似ごとをしてしまうというか、結局、自信のなさはどこにいてもついて回りました。

――そんな状況の中で、でもニュージーランドに留学されましたよね。これはかなり大胆な判断だと思うのですが、いかがですか。

大胆というか、留学も、自信のなさゆえの「逃げ」なんですよ。じつは、怪我でテニスが難しくなってしまって。「あ、これはヤバイな」と思ったんです。なぜかというと、将来的にそのままテニスコーチになろうかと考えていたからです。でも、その夢が厳しくなってしまった。じゃあ自分に何か「仕事に活きるスキル」があるかというと、自信の持てるものは何もなかった。英語だって勉強していなかったし、周囲の友だちがやたら眩しく見えました。それで、「このまま日本にいたら、俺、結果出せないな」って追い込まれてしまって、自分に箔をつけたくて、また留学に行けば自分も変われるかもという淡い期待も抱いて、ニュージーランドへの留学を決意しました。

アフィリエイトを始めた理由とは

――ところが、結果的には留学が現在の仕事にまで結びつくことになります。英語も使えるようになりましたし、そもそも大学卒業後に就いた留学カウンセラーの仕事だって「ニュージーランドでの学び」がなければあり得なかったわけです。

道は開けましたね。その後も自信のなさはずっと続きますけど、とりあえず仕事面でいえば「第一歩」は踏み出せた。ただし、やっぱり留学カウンセラーの道も、そののちに始めた会計学の道もしんどくなって、「自分には合わないな……」となってしまい、逃げることになります。その行きつく先がアフィリエイトだったんですね。これも、逃げと言えば逃げです。ところが、逃げた先での仕事が当たった。私の場合、全部が全部そうなのですが、「嫌だな……」と思うことは何度も避けてきました。

――でも、避けた先で「やろう」と思ったことは徹底的にやりますよね。先の留学カウンセラーもそうですが、中途半端にはせず、高校生の相談に徹して乗った。アフィリエイトも、他の人がしないレベルまで努力を重ねました。

継続的な取り組みは、やはり得意なんです。自分で自分に課した約束だけは破りたくないっていうこだわりがあるんですね。そして、細かなところまで努力を積み重ねていく。あたかもそれはタスクをやって数字を積み上げていくようなイメージですけど、数字にこだわる姿勢というのは一貫しているかもしれません。現在の仕事すべてがそうですが、数字的に「確かに利益があがる」ことがわかるまでは、事業を進めませんから。

長所と短所は表裏一体の裏返し

――「自分で自分に課した約束は破りたくない」という言葉に誠実さを感じます。その姿勢はお母さまに育てられていく中で培われたのでしょうか。

僕は結局、母とほとんど同居しなかったんです。父が亡くなって、で、母は働いていた。おじいちゃん、おばあちゃんに育てられた面が大きかったです。ただ、寂しさはあったと思いますし、前にも言ったように寂しさゆえに「仲間外れ」にされることへの怖さを抱えていた。根本には、自信のなさがありました。でも、自信がないことって悪いことばかりではないんです。

――と言いますと?

たとえば僕が2014年に中小企業へのマーケティングコンサルティングをスタートした時、業界によっては極端にマーケ思考(志向)の弱いジャンルがあって、そこ(=ブルーオーシャン)を狙って事業を展開しました。これは、ブルーオーシャン戦略とかランチェスター戦略といったカッコいい言い方をすればそういう戦略なのでしょうけれど、僕としては正直な話、「マーケ的にすでに成熟した市場では通用しない」とスッパリあきらめたからそうした、というだけの話なんです。自信がなくて、あきらめもすぐについたから、返ってブルーオーシャンに素早く参入できた。これって「弱点が強みに変わる」みたいなことですよね。長所と短所って表裏一体の裏返しなんだなと実感しています。

「逃げる」「避ける」で仕事を成功させる秘訣

――今まで話を伺って思うのですが、「逃げて」「避けて」行きついた先で仕事を見つけるケースが多いですよね。これってある意味で「消去法」の職業選択だと思うのですが、それで成功されている。秘訣は何でしょうか。

やっぱり「とことん突き詰める」ことだと思います。徹底的に努力する。これは昔からそうです。テニスの練習だってそうでした。小学生の時に習った漢字の「暗記」といったレベルでも、徹底して努力をしました(笑)。僕は基本「自分はできない人だ」と思っているので、圧倒的な回数の反復、「数」「量」で勝負していこうって決めているんですよね。これはビジネスでも一緒です。

――そうか、最初から「才能のある人と同じ土俵で勝負すること」は避けて、努力して差が埋められるところに逃げた上で「数」「量」で勝負するんですね。「逃げ方一つで、『逃げる』は価値になる」。

「ここでは俺は勝負できない」「俺は通用しない」って逃げてはいるのですが、一方で「残った土俵」というか、「ここなら勝負できる」という場所では集中して勝負に行っています。「選択と集中」みたいな感じでビジネスをしているんです。あと、「逃げ先」ですけど、「どこでもいい」わけではないんですね。これは結果論かもしれませんが、「社会的なニーズがあるにもかかわらず、まだそれを意識化している人がいない」、まさにブルーオーシャンには逃げてきました。

逃げ方一つで「逃げる」は役に立つ

――ブルーオーシャン発見器みたいだ(笑)。

現場にどっぷり浸かってやっているから、もしかしたら市場を読む感性が身に着いたのかもしれません。座学が苦手というか、席に座って学ぶことも否定はしませんけど、僕は実践の中で基本的なことはすべて学ぶようにしています。「実務中心で座学は後からついてくる」くらいなスタンスで徹底して学んでいたら、良いところに逃げられるようになりました。

――「逃げ方一つで、『逃げる』は価値になる」という発想には、原体験がありますか。

あります。小学生の時です。僕、小学4年生から中学受験のために塾に行っていたんです。でも塾がすごく嫌いだった。もう、逃げたくて逃げたくて仕方がなかった。そこで僕は、親と契約を結ぶことにしました。「もし中学受験に合格したら、高校受験時も大学受験時も塾に行かなくていいか」と。で、最終的にはその契約を胸にたずさえて受験して、何校も合格できた。ただただ塾から逃げたくて勉強して、受験をパスした。「逃げ」が最大の駆動力になったんです。だからでしょう。合格の知らせを受けた時にまず僕が抱いたのは「志望校に通った!」という喜びよりも「ああ、もうこれで塾に行かなくて済む」という安堵の気持ちだったんです(笑)。「逃げはモチベーションになる」という発想の原点になっています。

――最後に質問です。「自信がない」感覚はいまも継続しているのでしょうか。

自信がないという明確な感覚はかなりなくなってきています。自信がないというより、自分の分を「わきまえている」「わきまえよう」という感覚の方が強いかもしれません。ただ、今が幸せだということは言えます。青春時代、幸せそうな人をひたすら真似する人生でしたけど、現在は自分が幸せです。生きがいが見つかりました。それは結局、自分の中にしかないのですけど、「誰の真似をせずとも自分は幸せだ」と言い切れる自分にはなれました。目の前にあることに対して全力で取り組めている自分自身が本当で幸せだと感じている。この幸せな「感じ」を、より多くの人に広めたいという意味でも僕はビジネスをしています。

――今日はありがとうございました。

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